(1) 地方分権への対応
l 自治体の合併(秦野市と周辺自治体の戦略的連携)
秦野市と中井町、二宮町、大磯町、伊勢原市そして平塚市が、そう遠くない将来、一つの都市になると真剣に受け止めています。地方分権とは、地方自治体が国の方針に従い自治を行ってきたことを改め、主権を持つということです。これが実現すれば、秦野市が属する都市の規模は、人口レベルで60万人程度になります。機が熟した時、秦野市はこの輪の中に勇気をもって飛び込み、存在感を発揮していかなければなりません。地域のエゴにこだわらず、圏域全体の公共の福祉を実現するため各市・町が結び付くことが必要であることはもちろんです。しかし秦野市は、東京都で最も都市機能の高い、都庁のある新宿と小田急線で直結し、高規格道路や高速道路の計画が充実しているため、合併後の中心的位置付けにふさわしい戦略的なイニシアチブを取れる利点を持っていると考えています。秦野市の将来を今から考える必要があります。
2 税源委譲(委譲される税源の充実を図る具体策)
これまで国が徴収して地方に振り分けてきた税金を、地方分権の進展により、地方自治体の自主財源として市町村が直接徴収するようになります。もちろん、すべての税源が委譲されるわけではありませんが、国が徴収し、地方に交付税として配分する割合は圧倒的に減っていきます。地方自治体の課税自主権の拡大によって、税収が増える団体と減る団体が出てくることは明らかです。秦野市は委譲されるであろう税源をいまから充実させるように努めなければ、財政状況は確実に疲弊してしまいます。税金は市民からいただくものですので、値上げをすることでは解決できません。これまでと税率を変えることなく税収を高めるためには、市民の収入を増やし、所有する資産価値を高める施策を地道に実施しなければなりません。議員として、全力でこの難題にチャレンジします。
3 自治基本条例の制定(明確なローカル・アイデンティ
ティ(秦野の特性)と政策理念は不可欠な要素)
自治基本条例とは、秦野市の憲法です。市民の総意を結集し、納得のできる草案を示すことは市の役割です。他市の条例を真似するのではなく、「秦野市市民憲章」の精神を十分に生かしたものでなければなりません。これまで一度も秦野市では行われていませんが、一定の政策決定に関して住民投票による賛否の確認も行うべきではないかと感じています。そのためには、その決定過程における情報提供やパブリックコメント(意見公募)などにより市民との情報の共有化を徹底する必要があると思います。自治基本条例の草案の中に、こみやま弘行は、秦野市が秦野らしい「まち」であるための理念(ローカル・アイデンティティ)を盛り込んでいきます。
(2) 行政改革の推進
l 指定管理者による施設経営(受託者提案制度の導入)
「民間にできることは民間に」という言葉を聞く機会が、小泉総理の退陣後大変少なくなりました。行政改革の基本は、この理念から始まらなければなりません。公務員を減らし、小さな政府(チープカバメント)を求める意識は高まっています。しかし、市民サービスが極端に低下すれば、社会保障の弱体化と同様に、大きな国民的不安を募らせてしまう結果になるでしょう。市役所の職員を減らしても、なお住民サービスを向上させるためには、民間の責任ある参入が不可欠です。秦野市は、すでに中央運動公園全体やおおね公園などの運営に指定管理者制度を導入し、民間に任せています。公共施設にはまだたくさんこの制度を採用すべきであると考えています。例えば、文化会館、弘法の里湯や宮永岳彦記念美術館などです。民間が自ら行政に提案し、指定管理者としての参入を促すための「受託者提案制度」を導入し、民間活力を利用して雇用機会を拡げていかなければならないと考えます。
2 土日の市役所開庁(出雲スタイルから学ぶ)
土曜日・日曜日に市役所が開庁していればどんなに便利でしょう。以前お話をお聞きした元・出雲市長の岩国哲人さん(現国会議員)は、出雲市役所を週7日開庁することに成功しました。それでも人件費は週5日のときと変わることなく実現させたと伺いました。古谷市長は、この問題をマニフェストに掲げ、努力されていますが、市職員の抵抗も少なくありません。市民のために前向きに努力する職員を応援し、適正な人員配置により市民サービスの向上を実現させる必要性を感じます。
3 ワンストップサービス(たらい回しのない市役所)
市民が市役所を訪れる理由はさまざまですが、書類の作成やめんどうくさい制度に戸惑う方は少なくないと思います。高齢社会の中で、介護保険や国民健康保険の申請や手続きに手間取ることも市民から指摘されています。
隣の韓国では、日本やアメリカを手本にして民主化を進めていますが、役所を訪れる市民が一回の来庁でスムーズに手続きができるような取組みを始めています。そして、窓口に来た市民は、応対する市職員の評価をその場で行うことができるようになっています。職員の顔写真を入れた評価表に小さなシールを張り、一目でその日の職員の成績が表れる仕組みになっています。韓国で始まった工夫を参考にして、働く職員を市民の目線でチェックし、たらい回しのない窓口を確立しなければならないと感じています。
4 パブリックスペースの民間開放(移動ショップを提案)
秦野市にはたくさんのパブリックスペース(公有の土地や施設)があります。公有財産は、市役所の財産ではありません。市民の共有財産です。戦国時代でさえ、楽市楽座という人々のビジネスチャンスを拡げる工夫があり、封建的な江戸時代でも、路上での営業や公共スペースでの小規模な商いが認められていました。権利が保障された現代の方が、公共施設と市民生活との間に大きな溝をつくってしまっているような気がします。
例えば、運動公園や水無川河川敷を市民に開放すれば、小さな移動ショップが賑わいを作り出すのではないでしょうか。ヨーロッパでは、教会を中心に街が構成され、教会の周りに広がる大きな広場は自由市場となり、その周辺を商店街が取り囲むという構成の都市をたくさん見せていただきました。本市のパブリックスペースを開放して事業者に小さなチャンスを提供し、人が溢れるまちづくりを提案します。
(3) まちづくりの新たな視点
l 金網のない公園(管理優先から楽しさ優先へ)
公園を取り囲む金網やフェンスは、管理面を優先しようとする行政体質の象徴です。中央運動公園のプールの周辺は、現在私の提案をもとにウッドデッキを設置しましたが、プールの周囲にはたくさんの木々が木陰をつくり、豊かな緑が溢れています。しかしプールの利用者は、周囲を金網で囲われ、夏の太陽で焼けつくようなプールサイドで休憩するため、くつろげないように感じます。プールに来る市民は、競泳を目的にすることは少なく、リラクゼーションの場として使っていると感じます。プールの構造を競泳用にしなければならない理由は理解するとしても、市民のために金網を取り去り、ゆったりとくつろげる空間を作り出したい。公園から金網を取り外す作業は、日本中の自治体で始まっています。プールや公園を利用する市民の気持ちになって、すべての世代の憩いの場としていきたいと思います。
2 緑陰のあるまち並み(ポエムは緑陰から生まれる)
秦野市の面積は、およそ100平方キロメートルです。そのうち7割が山林で、緑豊かなまちにふさわしい状況といえます。しかし、残りの3割の市街地の緑被率は、東京23区並みという現状です。街路樹は、落ち葉や倒木が問題となり、住民不安の種となっている場所もあります。まちなかの緑は、地域の人々の毎日の暮らしの中に溶け込み、愛されるものでなければなりません。ヨーロッパには「ポエム(詩)は緑陰から生まれる」ということわざがあります。市民の感性を豊かにさせる緑陰を増やすには、住民参加による樹種の選定や管理が求められます。楽しく散歩ができる緑豊かな市街地を創出することが必要であると考えます。
3 道路整備の手法変更(アスファルトだらけの画一的
施工からの脱却)
秦野市は、丹沢にはぐくまれた盆地の中で市民の暮らしに必要なさまざまな道路を造った結果、今日の繁栄があると思います。現在では舗装状況も良くなり、舗装率も向上しています。
道路の専門的知識のない私なりに分類しても、一般的に赤道(あかみち)といわれる民家と民家の間に昔からある小さな路地、建物を建てるために造られ、市に移管された、そこに暮らす人々のために必要な道、合併当時の町村から市に引き継がれた、地域全体が必要とする生活道路、工場の進出や大規模な区画整理で造られた都市計画道路やそれに接続する道路、さらに全国レベルでの流通の高速化などに貢献する国道や高速道路など、成り立ちや目的によっていくつかに分類することができます。
最近の道路整備をみてみると、ナショナルトラストに指定された地域の周辺市道や本町上宿の観音堂前の参道は、アスファルト路面が彩色され、周辺環境に配慮されています。そのほかにも様々な工夫を住民要望で実現させてきました。秦野市の名所旧跡、観光地や自然保護を必要とされる地域では、これまでの画一的なアスファルト舗装をやめ、その場所の環境や景観に調和した道路整備に着手すべきであると考えます。アスファルトの質感や色、さらにその素材を考慮すると、利便性や利用頻度の高いところではコストの問題から、今すぐに変更することは無理だと思います。目的達成のための第一歩として、道路整備の質の向上を目指し、画一的な舗装をやめ、周辺の環境や景観に調和させるため、計画的に実施することを求めていきます。
4 時代を超えた景観の育成(文化的・歴史的景観づくり)
スペインにあるサクラダファミリアは、アントニオ・ガウディの設計により、100年以上たった今でも造り続けられています。デザインの奇抜さや美しさに魅せられ、世界中から観光客が押し寄せていますが、完成するまでにはまだ相当の年数がかかると聞いたことがあります。
秦野市にも、文化を創造しようとする崇高な精神が求められます。まちづくりは、専門技術者の無駄のない硬い線では描き切れない設計も必要だと考えています。柔らかくアーティスティックで必要な無駄のある設計の両方を許容することが、文化的・歴史的な景観をつくり出すと思います。フィレンツェは、世界で最も景観が優れた街として知られています。この街の設計者は、あの「レオナルド・ダ・ビンチ」です。街づくり・景観づくりを場当たり的に考えるのでなく、「百年の大計」で取り組むことを提案します。
5 高齢者の視点からまちを見直す(道路や公園は高齢者
の憩いの場に造り替える)
地方分権以外で、秦野市のこれまでの政策を一変させる要素を含んだ問題に、少子高齢社会の到来があります。市内には、子ども向けの公園が点在し、現在も造り続けられています。一定の開発には、公園設置が義務付けられているからです。しかし何年か経つと、少子化の影響で公園から子どもの姿が消え、閑散とした状態になってしまいます。施設を児童公園から高齢者向けガーデンに転換させるべきであると提言し続けています。さらに、その財源として、公園設置の義務を金銭に置き換え、将来に備えることを提案しています。また、バリアフリーによる道づくりは、高齢社会への対策として進められていますが、生活に使う道路と散歩を楽しむ歩道の両方を考慮し、道(路)を歩くことが楽しみになるような、前例踏襲に甘んじない道づくりをサポートしていきます。
(4) 豊かさを実感できる生活環境の実現に向けて
1 お金に代えられない豊かさを求めて(観客的市民生
活から社会貢献型市民生活への移行)
最近多くの政治家が「行政が我々に何をしてくれるのではなく、我々が行政に何ができるかだ」という内容の話をしています。かつてのアメリカ大統領・ケネディの有名な演説のコピーです。私たちは、社会を構成する一員として、一人ひとりが責任を持つことを求められているのでしょう。公園の樹木の管理や路上の清掃などは、以前は、市民から要望として市役所に寄せられると公費で対応することが少なくありませんでした。最近では、自治会や高齢者団体による自主的な活動で解決する例が増えています。市民が地域貢献を申し出てくださることで、公費の削減につながることはもちろんのこと、地域の和を形成し、またそれを健全に保つ効果は絶大であると考えています。市民一人ひとりが街の主役になることは、成し遂げた地域貢献による達成感を持ったときであると思います。お金に代えられない市民の達成感をたくさんの人々と共有したいと考えます。
2 地域経済を活性化するための作業(農業だけでなく、
商工業でも地産地消の推進を)
秦野市は、地産地消事業として農協が取り組んでいる「じばさんず」に協力しています。市内の農業生産者が作った農産物等を地元で消費してもらうことを目的にしたこの取組みは、市内にとどまらず、県外を含め多くの消費者に受け入れられ、活況を呈しています。
この発想をそのまま商業や工業に当てはめてみると、秦野市内の事業所で発生する営繕や土木・建設工事、ユニフォームや文房具などの需要を市内の事業者に発注する、ということになります。工場では当然市民の多くが就労の場を得られるため、雇用の機会も増します。生産された製品をできる限り公共事業や市民生活に使うのです。その結果、地域の中で経済が循環する新地域経済圏が誕生することになります。経済はグローバルに考えなければ成長できませんが、地域循環を実践することで、地域全体を豊かにする側面も持っていると考えています。秦野市のすべての産業における地産地消を実現し、地域競争力を上げ、活性化させるシステムをつくりたいと思います。
3 使い捨てから伝承への転換(たばこ祭のフロート車を
山車に変える試み)
ごみの資源化が叫ばれる今日、大きな意味で無駄に感じるものがあります。たばこ祭のフロート車です。一台当たり50万円以上の費用をかけ、毎年作っては壊す繰り返えしが何とももったいないと思うのです。このお金をうまく使えば、高山祭や祇園祭、岸和田のだんじり祭に匹敵する立派な山車(だし)を作ることも可能だと考えています。本町地区では、各町内が子ども神輿を伝承し、大切に守り続けています。秦野市が伝統をつくり出す第一歩として、たばこ祭を伝統行事として永年市民に愛される祭りに根本から変えてみたいと思います。
(5) 環境保全へのアプローチ
l 自然を守る環境保全(丹沢やその野生動物に対する認識)
環境を守ろうと一口でいっても、自然環境を守ること、生活環境を守ること、自然との共存を考え、人のための自然を身近に感じることができるようにすることを区分して考えることが必要です。まず、秦野市民が「宝」と位置づける丹沢の自然に対する実効性のある施策を考える必要があります。ブナの立ち枯れや動植物の保護は、現在の人間にとっての損得よりも後世に残す大切な財産であることを認め合い、シカ、サルやイノシシなどにより人が被る被害は、どこに原因があるのかを十分に調査し、自然を乱した要因をできる限り排除し、再生に努力していきます。野生動物や樹木の立場に立って、自然が自然のままにあり続けられる取組みを議会活動でのライフワークとします。
2 自然と共に生きる環境保全(里山や谷戸に対する認識)
環境保全では、もう一つの大切な取組みとして自然と人との共生を考えなければなりません。秦野市では、農業と身近な自然は密接な関係を持っています。農業の近代化が身近な自然の様相まで一変させたともいえます。いいかえれば、市街地と自然(山間部)の間に田畑が拡がり、里山や谷戸があり、人里と自然の中間で直接両方が交じり合わないようなバリアの役割を農業が担っていると考えることができます。里山は、クヌギなどの主木の用途が減ったことや苗床や肥料、焚き付けなどに利用されていた柴や落ち葉が利用されなくなったことで、手入れが行き届かなくなりました。里山や谷戸を健全に保つためのボランティアの活動も知られていますが、もう一度、私たちの身近な自然に注目し、田園とその周りを景観ごと守る手立てを考えていきます。法的な問題がまだ解決されていない、クラインガルデン(住宅付き農地の賃貸借制度)や優良田園住宅制度(多自然型区画整理)の導入を提案します。
3 市街地における環境保全(生活の場での、ごみ、公害、
下水道処理に関する問題意識)
人間が社会を構成すると、たくさんのリスクが身の回りに発生します。大量に出るごみ、家庭用雑排水、エネルギー消費に関するもろもろの排出物質や公害を数え上げれば切りがありません。現在の環境問題は、ほとんどこれらのことを対象に考えられていますし、秦野市も深刻な問題として取り組んでいます。しかし、ごみ処理や公共下水事業には、たくさん改善すべき点が存在しています。例えば、ごみを焼却した後の灰や下水道処理で出る汚泥は、一部県外へ持ち出し、埋立て処理をしています。自ら出したリスクを自分の地域で解決できる循環方式と大きなサイクルの中で処理できるように、市民と一緒に住環境を考えていきます。
(6) 福祉施策への取組み
1 3障害の一元化施策(自己負担のあり方を考える)
昨年10月から「障害者自立支援法」が全面施行されました。この法律により、身体障害、知的障害及び精神障害の3障害を一元化し、これら障害者の地域生活・就労への支援を中心にした福祉サービスが創設されました。しかし、これによって従来の応能負担から原則1割の応益負担に転換することになりました。これによる自己負担増を緩和するため、独自の補助を行っている自治体があります。秦野市では行われていません。福祉の領域では、全国民が受ける同一のサービスには、どこの市民であろうと同等の負担であるべきだと考えますので、自己負担の緩和の方法を研究し、提言します。
2 幼保一元化に向けて(サービスの多様性が成功への鍵)
少子社会の進展の結果、秦野市にとっても「幼保一元化」は喫緊の課題となっています。幼稚園は文部科学省、保育所は厚生労働省といった垣根を越えた国レベルでの規制緩和の大きな流れに沿って、一つの施設の中で提供される保育・教育のサービスとして、子どもの保護者が選択できるような多様性をどれだけ備えることができるかがこの課題を成功させるキーポイントになると思います。施設を単に集約するのではなく、各地区の子育て支援の拠点にふさわしい機能を持ったものとして充実させていくべきだと考えます。
(7) 教育改革
l 義務教育から教育を受ける権利へ(小中学校に通うこと
は、親の義務から子どもの権利であることへの意識付け)
保護者に子供を教育する義務があることを定める憲法を根拠に小学校・中学校を義務教育と呼ぶことに対して、いつも疑問を感じています。子どもたちには「教育を受ける権利」があると考えるからです。我が国が批准している「こどもの権利条約」の第28条と第29条は、子どもが、教育を受ける権利の権利主体であることを明確に定めています。学校の先生が子どもたちは義務で学校に通っていると考えているとしたら、現在問題になっている不登校や閉じこもる子どもたちに対し、愛情のある、本当に必要な行動が取れるのでしょうか。義務が果たされない子供として認識されると思えてなりません。学校に通うのは子供の権利と考えれば、もう少し違った見方も出てきます。教師が真に子供を中心とした指導を実践できる教育の場づくりを支援します。
2 ゆとりと甘えのけじめ教育(まずは知識の習得、考え
る力は基礎知識の上に成り立つ)
ゆとり教育を見直し、知識の習得に力を入れることは、国の中央教育審議会などが最近打ち出しました。ゆとり教育は、子どもたちのためにあったのか、あるいは教職員のために必要だったのか、改めて考えさせられる方向転換です。かつて日本の教育水準の高さは、世界でもトップレベルでした。もちろん世界からの注目と尊敬を集め、そのことが日本人の誇りでもあったように思います。同時に、日本人には厳格さや生真面目さが目立ち、応用力や創造力に欠けるとの指摘がありました。そこで、学科指導にゆとりを持たせ、豊かな感性を高めようと、知識の習得をゆとり教育に一部置き換えたのだといわれています。知識習得には適齢があると考えます。まず、知識や学力を身に付け、その上で応用力や創造力を育てる機会をつくることを求めていきます。
3 集団教育の意義と少人数クラスのメリット(集団で教
育を受けることは、他人との違いを学ぶ最高の機会。
一人で学習することからは学べない大切な環境として
クラスの適正人数を研究)
集団教育は、イギリス産業革命が生んだ教育方法です。それ以前の教育は、一部の貴族や富裕層のもので、家庭教師を雇い、子どもたちを教育していました。当時、数々の新しい機械を発明したことによって、それを使う知識や技術の普及が不可欠となり、たくさんの子どもたちを一度に教育することが必要になったようです。集団で教育する方法は、効率的な教育手段であったことはもちろんです。それだけでなく、宗教、民族や文化の違う人々の相互理解の場としても適していました。つまり、自分と仲間の違いを社会に出る前に学び、違う考えの者同士がうまく付き合い、他を認め合う効果を生みました。「みんなと一緒で」という横並びの考えでなく、一人ひとりの個性を互いに尊重し合う集団教育、クラスの人数も何人が適しているかを考え、提案していきます。
4 学校の安全(学校を不審者から守り、校内での犯罪
を防ぐ)
日本の社会は今、すぐ隣に凶悪犯罪が潜んでいるという認識のもとで、できる限りの人事を尽くすことが求められています。子どもたちが集まる学校は、ひとたび犯罪者が立ち入ると悲惨な事態になりうるという教訓は、すでに多くの市民の共通認識になりました。秦野市の幼稚園でも、不審者等の侵入がすでに現実になったことを真剣に受け止めなければなりません。古谷市長は、モニター付きオートロックシステムの導入など、他市に先駆けた取組みを始めていますが、学校での犯罪を決して許さない覚悟で、通学・帰宅途中や校内の安全のため万全な対策が取られているか、厳しくチェックします。
5 教育基本条例(地方分権が教育の組織や運営までも
変化させる)
自治基本条例が秦野市の憲法であるならば、教育基本条例は、秦野市の教育基本法です。地方分権がさらに進展すると、教職員の数や給与、クラスの人数やクラブ活動に対する方針などを市が独自に考えなければなりません。文部科学省の指導の方が、地元の教育委員会の意思決定より重いという現在の構図も、逆転することになると予想しています。
自治基本条例と教育基本条例は、ともに地域が定め、地方分権の要として重要な条例であり、秦野市の市政運営の進路を明文化するものとして、市民の総意を結集したものでなければなりません。秦野市の教育基本条例が他市と同じにならないよう注目し、目標や夢を実現できる元気で聡明な子どもたちをはぐくむため、立案に全力で参加します。